「パパが会長で嬉しい」と言ってくれた2年間 Vol.2

〜必殺の裏技サク裂!の巻〜

側溝の初年度の清掃が終わった頃、もう一つの難題がやってきた。

徳島南環状線という大きな道路が、いよいよ翌年に園瀬川沿いに開通する運びになり、着々と周辺工事が進んでいた。

朝と夕方の通勤ラッシュの時間は大渋滞を引き起こし、児童の通学にも少なからず危険な箇所があったので、全体的には喜ばしい大事業だった。

しかし、一部の地域の方達、というか児童を除いてである。

河川敷の牧歌的な通学路を、花を摘んだり追いかけっこをしながらポチポチと通ってきていた100名前後の子供たちに、代替案として示されたのは40mのボックストンネルだった。

大きな道路の下を、コンクリート製の箱型トンネルで潜らせるアレである。

当初は、照明の予定もされていなかった。

近くに民家も無い。

さらに決定的な事実として、そのエリアは毎年不審者情報が出てくる場所だった。

それまでは明るい見通しのいいところを、友達と一緒に通ってたから問題も起きなかったのに、水路の関係とはいえわざわざ遠回りさせてそのエリアを歩かせるという国交省からの案に、一同猛反対だった。

情報が錯綜し誤解が誤解を誘発するような状況だったので、国交省の管理事務所に副会長さん達と直談判に訪れて、学校の方に説明会に来てもらう事にした。

市道も絡んでくるので市役所の担当者と共に、国交省のアタマ良さそうな担当者に図書室で説明してもらった。

が、専門用語ばかりでめっちゃ解りにくい(~_~;)。

できる限り通訳して、一通り説明が終わり、アンケートを出してもらったところ、90%以上の保護者が計画に反対だった。

先生方も当然反対側だけれども、表立った態度は取れずに、外向きの動きはPTAに暗黙のうちに委ねられる格好となった。

最終回まで何回、公式&非公式で集まったか覚えていない。

意見書を提出し、返答が来ればそれを元に本部役員だけで集まって事前に食事込みで話し合い、保護者会議が行われた。

このままの計画でボックストンネルを回避しようとすると、子供の足で700mも遠回りになってしまう。

ルート変更希望を出しても、あえなく却下された。

そんな中、現地説明会も、主要な先生方や保護者も交えてしてもらった。

皆さんの結論は「あり得へん!」だった。

二進も三進も行かないある日、役員さんから「歩道橋を掛けてもらったらどうでしょう!」という案が出された。

図面をよく見ると、元々計画されていたような場所があった。

国交省の管理事務所長に尋ねたら、計画はあったけど予算の制約上カットされたという事だった。

再考を願ったが、のらりくらりと交わされて先に進まない。

ここで乾坤一擲の伝家の宝刀を抜く事を決めた。

初年度の副会長さん達の打ち上げ会の前々日に、地元選出の某代議士の事務所を訪れた。

たまたま帰郷していたその方とは、妻側の親戚周りでしかも飲み仲間だった(^ ^)。

「庄野君、いつでも困った時は言うて来いよ」と言ってくれてはいたものの、そんな事って滅多に無いよなと思っていたが、その時が来た。

一通り話し終えると、「ここはボクの出番やな。後は任せとき」という心強い言葉をいただいて、帰ってきた。

2日後、国交省の所長から電話が来た。

「歩道橋、掛けるようになりましたから。2〜3億なんて、全体から見たらしれてるんです。ただし掛けた以上はちゃんと子供が通るようにして下さいね!税金の無駄遣いって言われるのが一番困りますから!!」と強い口調で仰ってくれた。

相談に行った翌日に代議士が上京し、議員会館でたまたま隣室だった国交大臣に話したら、その場で即決したらしい。

大臣から直電が来たので、所長は何事かと思ったがその程度かと安堵したとのこと。

その話を、打ち上げ時にした時のみんなの爆盛り上がりっぷりは今でも脳裏に焼き付いている。

全員の弾けるような笑顔や歓声。

何度もやり直した乾杯。この上なく酒が美味かった。

無事に完工して、テープカットセレモニーに呼んでくれた。

教頭先生の心配は、僕がビーチサンダルで来ないかどうかだったらしい(笑)。

学校側の工夫として、全校児童にネーミングコンペを行い、選ばれた名前を今後は習字の得意な3人に橋名板の文字を書いてもらって、これも全校児童の投票で決めたとの事。

おかげで、今日も歩道橋を子ども達が元気に駆け登り、平和な通学路が守られている。大変だけど楽しかった。

〜血は争えない!の巻〜

初年度の慣れないルーチン行事をどうにかこうにかこなしていた頃、同じ小学校区に住む叔父から驚くしかない話が飛んできた。

「八万南小学校の隣の土手の斜面が草ボーボーで見苦しいから、芝桜を植えようと思うけん、手伝ってくれよ」
「え!マジで?」

が第一声だった。

本気も本気で、叔父と一緒にいつも道路の雑草を抜いている仲間達だけでなく、従弟や従妹の旦那まで駆り出されて、作業に加え日程の調整をやらされていた。

エンジン式の草刈り機も大量に集められ、刈った後に被せる防草シートも分厚い最高級レベルのモノで、それを小学校に面した部分、400m×7〜8m分を用意している。

叔父は初代で起業し、なかなかの会社にしてから代表を長男(こっちから見たら従弟)に継承し、地域のために何か貢献したいという思いで、私財を投入したらしい。

内孫がこの小学校に通っているので、爺ちゃんのカッコいいところを見せたいという強い思いが、学校から道を挟んだ土手の斜面に目を向けさせたのだとか(笑)。

作業は全員が汗だくになってやり切った。

シートを張った翌週には、それをカッターナイフで十字に切り込んで穴を開けて、数千株の芝桜の苗を植えた。

ちょうど雨の多い時期になったので、結構な確率で根付いてくれた。

それまでの毎年の運動会の時期に、グラウンドから見える土手の斜面は、それはそれはカオスな感じだった。

競技で盛り上がってるけど、その方面に目が行くと気持ちがちょっと・・・となった。

ところがその年は、雑草がなくシートが敷き詰められ、定間隔で苗が植えられていて少し伸びてきている状態だった。

毎月1回集まって、雑草などのメンテナンスを続けていた。

その甲斐あって翌年春の入学式の時期には、見事な白・赤・ピンク・紫の絨毯となって咲き誇った。

それに気を良くした叔父は、今度はPTAと連動したいからお前が窓口になってくれと言い出した。

具体的には、手入れが届かずに伸び放題になっている校庭の木を切って、そこに芝桜の苗を育てる畑を作るとの事。費用はもちろん全額叔父がもつと伝えると、校長先生も木の処遇に困っていたらしく二つ返事でOKしてくれた。

そこまでは上手く進んだが、その先の苗を子ども達に分けて、一人ずつが育てて自宅にも持って帰って町中に芝桜の輪を広げたいという野望は、教えながら苗を植えたのが夏休み前という気候が厳しい時期だったので、3割以下しか根付かずに頓挫した。

でも、小学生達に一生懸命になって教えている爺ちゃん達の姿を見るのは微笑ましかった。

実際、この組み合わせはWin-Winの関係じゃないのかなと思う。

しかも先生も爺ちゃん達に頼ってるんで、ここでもお互いがプラスに作用していると感じた。

正直言って、爺さん連中は自己実現の場と、自尊心を高めてくれる機会を熱望していると思う。

要は承認欲求の塊なんじゃなかろうかと、この活動に参加して改めて思えてくる。

最近だと70歳でもバリバリ動けるし、現にそんな方達が斜面を上下動しながら手にはいっぱいの雑草持ってるし、時折出てくる戯言さえ上手くスルーしておけば、全然戦力になり得ると実感する。

あれから10年がたった今、スギナ等の強力な雑草連中に脅かされながらも、春には綺麗な花を咲かせてくれて、皆を喜ばせている。

毎月のメンテナンスに、PTAの保護者さんやお子さんが数十人集まってくれたり、先生方も日曜の朝っていう気の毒な時間に手伝ってくれている。

学校の外と内との境界が微妙な部分だけに、今後の立ち位置等々が人的繋がりにもなるのかなと思いながら、今も草にまみれている(^ ^)。

サブタイトルの「血は争えない」については、実は叔父がやるぞ!と言い出した3年前に、僕が一人で草刈り機で全部刈った経験から。

敬老の日と秋分の日がくっついて、4連休だった2010年の9月。あまりにも見苦しいので、運動会前に4日間の午後全部使って、刈りまくった。

目立たないように顔出しも極限まで減らしてやり切ったのに、当時の校長先生には正体がバレていた。

その頃から、PTA会長候補に名前が無断で上がっていたと、後々になって教わった(笑)。

〜学んだ事、会長やって良かったことの巻〜

2015年の5月のPTA総会をもって、無事に次の会長に引き継いだ。

ホッとしたような気が抜けたような気分だったが、ありがたい事に徳島市健全育成協議会の八万南小学校の会長職を当てがってくれていた。

おかげで、息子が卒業したのにPTA集会や運動会には呼んでくれた。

後継PTA会長に少しずつ伝達しながら、他校の健育会長さん達と酒を飲む機会が増えたのは、世界が広がる感じで自分としては嬉しかった。

本来なら、エスカレーター式に中学高校まで椅子が用意されていたらしいが、奇跡的にそのルートから外れた。

息子が奇跡×まぐれ×何かの間違いで、中高一貫の県立校に合格してくれたのだ。

必要書類をもらいに行った時の地元中学校の教頭先生の独り言が、「困ったな。今度の会長さんはすんなり決まると思ってたのに、こりゃまた時間かかるぞ」とボソッと呟いていたが、全部聞こえていた(^ ^)。

一貫校の役員決めは1分で終わった。一人のP連の猛者が受諾すれば、イモヅル式に全役員さんが決まった。

あまりそっちで名前が売れてなくて良かった。

会長になってからは、様々な人前で話す機会を与えてもらった。

最初のステージは、運動会。ここは元気良くいけば許してもらえた。

PTA集会の冒頭のあいさつは、楽しい空気にしていこうと、プチアイスブレイクで空気を和ませることを心がけた。

場数を経るごとに、慣れてきていると実感できた。

最大の関門は、卒業式だった。3つの事を伝えようと必死で考えた。

1つは、今日の教室の仲間とは絶対に、一生のうちで全員が揃う事が無いから最後の時間を大事にしてほしいという事。

2つ目は、どんな時も本は近くにいてくれて、友達になれるかどうかで、人生が大きく上下するから仲良くしてほしいという事。

最後の3つ目は、バスケでいう「オフェンス<ディフェンス」、「やりたい事<やらにゃイカン事」、「自由<責任」という事を右手と左手で示して全て不等号の向きはこっち!と伝えた。

この話をずっと覚えてくれてた保護者の方が何人もいたのには驚いた。必ず「ホンマに最近の子は・・・!!」と言葉が続く(⌒-⌒; )。

その内容以上に参加者全員に驚かれたのは、あの独特の空気の中でそれを紙に書かずに、読まずに話し切ったコトだった。

というより、読んでいいとは知らなかった。

後から副会長さんに「伝えれてなかったんですね!ゴメンなさい!!」と言ってもらったが、いろんな方から、「入学式もNo Paperでいくんでしょ、会長」と言われ、思わず「もちろんです!」と親指立てて言い切ってしまった(*’▽’)。

入学式も、ゆ〜っくりと話して「2つだけここで約束してください。1つは誰かが手伝ってくれたら、必ずありがとうと言ってください。わかった人はこっちの手を挙げてください」

といった時に、入学生全員が挙げてくれて体育館内がどよめきで包まれた。

「2つ目は、お友達とケンカしても、次の日までには両方がゴメンなさいって謝って下さい。できる人は今度はこっちの手を挙げてください」と言うと同じく全員が挙げてくれて、今度は拍手に包まれた。

この時の入学式を後々に知り合いになった人が保護者にいて「あんな入学式、他では聞かないですね」と褒めてもらえた。

児童たちに言った手前、自分もそこから外れないように気をつけている(^ ^)。

PTA連合会という、当時の自分にとって謎の組織にも加わる事ができて、人的ネットワークの輪が広がった。

公務員さんや会社員もいたけど経営者が最も多く、酒を飲む機会ごとに仲が近づくのを感じられた。

仕事の場でも会うことがあり、通常のオンビジネスだけでは話せない内容も、仲間意識から言い合えることができた。

それ以上に嬉しかったのは、息子が「パパが会長で嬉しい」と言ってくれた事だ。

仕事の時間が圧倒的多数で、家族との思い出は限られた機会になってしまいがちだが、PTAで学校のことにも関心を持つ機会が増えたので、親子間での共通言語ができてありがたかった。

当時まだ元気だった実父からも「ワシが出来んかった分、頑張ってやれよ」と言ってくれた。

PTA会長職は慣れるまで時間がかかって、時間も取られて、大変だなと感じる時もあるけど、乗り越えて1周回った先には、同じような位置でも前より少し高い場所になっている。

成長の螺旋をグルっと回ってこれたんだなと、振り返ってみて思う。

世の中の方に言いたいのは、迷ったら受けて下さいという事。

あとでやっとけば良かったって思っても、チャンスの女神様の後頭部はつるッパゲですから(笑)。

養護教諭にこ
帰宅後は倒れ込むほどのプレッシャーだったという部活動の保護者会会長が終わった途端、次はPTA会長の打診。自分だったらどう断ろうと悩んでいたと思います。でも、何故か断れなかったという筆者さんの地域や学校、子どもへの想いが伝わってきました。PTAを義務と感じるより「子どもの成長をアシストする楽しみ」を感じていたのではないかなぁと、活動の様子が目に浮かんできました。
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