先生と子どもたちにワクワク感と希望を!
沖縄県では他県に比べて、正規採用教職員の割合が低いというニュースを目にしたことがありますか?
つまり、臨時的任用教職員が他県より多いということです。
また、県内の教職員休職率は全国でワーストという現実もあります。
臨時的任用の良し悪しでもなく、休職することがダメということでもなく、
沖縄の教育現場のネガティブなニュースばかりが流れている。
なぜこのような状況に陥ってしまっているのか。
今現在も教育現場で自身の時間も削りながら必死に子どもたちと向き合うために働いている先生たちや、教師になりたい!と一生懸命勉強している若者たち、これから社会を築いていく子供たちに、ワクワクや希望を与えられるような環境になってほしいという願いについて、私の経験を通して感じたことを書いていきます。
初めての学校現場、非常勤講師時代に感じたこと
ハイタイ1。沖縄生まれ沖縄育ちのtokkeです。
中学校教師として働いてきました。
私が大学を卒業したのはもう十数年前です。
当時は今のような「働き方改革」「メンタルヘルスケア」「ブラック部活」などの言葉はなく、沖縄県内で教師は安定している・やりがいのある職業としての位置づけでした。
そのことから、採用試験の倍率も高く、簡単には合格できない、とても狭き門でした。新卒で合格した人がいたならば、もう周囲からは羨望の眼差しでした。
ですから、大体の流れとしては、大学卒業→臨時的任用職員の申込→各市町村の教育委員会からの連絡待ち→4月から臨時的任用で教員生活がスタートというのが一般的でした。(もちろん例外はあると思います。)
私の専門教科は、臨時採用の教員がたくさんいたようで、すぐに臨時任用とはなりませんでした。
学校事務職員1年間→中学校で非常勤講師として2年間学校現場で働いたのが最初です。当時は私自身も教員への憧れのようなものがあり、大学卒業と同時に教諭での臨時採用の連絡がこなかったので、悔しい気持ちがありました。
ですが、約2年間の非常勤講師として中学校で働いていた時に、「私、この世界しか知らなかったら私自身が学ぶことを忘れそう」と思い始めていました。
特に大きな出来事があったわけではありません。
一緒に働いている先輩教諭の皆さんは、毎日バタバタでゆっくりコーヒーなど飲む時間もなく、次から次へとやってくる仕事に対応し、朝早くから下校後の部活動終了後も夜遅くまで働き続けていました。
その姿を見て、尊敬の言葉しか出てきませんでした。
ただ、私は生徒と接するたびに、私が20代前半でまだ若いということもあり自分の人生経験が足りないなと常に感じていました。
「目の前にいるこの子たち、みんながみんな教師になるわけじゃないし、それぞれ好きなことや色んな巡りあわせで様々な職業に就くよな~」と考えた時に、「教師しか経験してないなんて損じゃないか!もっと別の世界も見て経験してみよう!先生になることは色んな視点を持って視野を広げて、たくさんのカラーを持つ子どもたちをまずは受け入れられる器になりたい(これは私の個人的な気持ちです)」と思うようになりました。
1 沖縄の方言。昼夜問わずあいさつ代わりに使用できる言葉。男性はハイサイ、女性はハイタイ。
学校以外の世界、再び学校現場へ
それから、一旦は学校現場を離れ、接客業、観光業、編集業、秘書業務などの仕事に就きました。留学にも行きました。
これらの経験で学び感じたことは、民間企業で働く経験と接遇やマナー、今ある生活はたくさんの人の労働で成り立っている、どんな仕事も誇らしく素晴らしい、ということです。
留学後に、世界の科学技術に貢献するために日本政府が沖縄県に設立した大学院大学で臨時職員として働きました。
そこでは、地域の子どもたちに大学内を案内するツアーもあり、その際に久しぶりに子どもたちと接する機会がありました。
子どもたちの「わあ、すごーい!」「どこの国の人かな」「Hello!」ワクワクとした表情と声。その時に、「今だ。採用試験に向けて勉強しよう」と決意しました。
当時、私は28歳。定職に就いていないことへの焦りもありましたが、何も成し遂げていないじゃないか!と自分に喝をいれ、必死に勉強に取り組みました。
29歳の8月、一次試験合格。10月、無事に二次試験に合格し、翌年の4月に教員生活がスタートしました。
これまでの経験を子どもたちに還元したいと意気込んでいた私でしたが、教師の仕事は良い意味でも悪い意味でも、私の想像の遥か斜め上を余裕で超えてきました。
大学卒業後、当たり前のように任される生徒指導・保護者対応…それらは教員生活を続けていく中でも培われていくものはあると思いますが、一度学校という場を離れ、社会の様々な職業や立場を経験して教壇にあがることで、可能性溢れる子供たちの選択肢を広げることができるのでは、と感じました。