私は中高一貫校の英語教師です。
長い間大学受験の受験指導をやってきました。
受験における強い師弟関係にはスポ根ドラマがあります。
先生はうまくいく方法を知っていて、生徒は今の自分の感覚と違っても師のいうことにどれだけ忠実に従うことができるかが求められ、努力・根性でがんばり合格を勝ち取る。そんな世界観です。
自分の感覚と違うことを強要されるわけですから、師は最初は憎まれることもあります。
しかし最終的には「先生の言っていたことは正しかった」と感謝されることも多く、一見みんなハッピーです。
この強い師弟関係を中心とした世界観の中では教師は自分が「教え、育てた」という感覚をもちやすいのですが、実はここには落とし穴があります。
「教え、育てる」の落とし穴
それは本当に先生のやり方にのれるのか?という点です。
「教え、育てる」の意識の裏には、従えないものは排除するという意識が隠れている場合があります。
「私のやり方に賛同できないなら、もうあなたのことは知らない。」と実際に口で言うかどうかはさておき、そのようなメッセージが伝わってしまうことは往々にしてあります。
では排除されてしまった生徒はどうなるのか?大変恥ずかしながら、私にも苦い記憶があります。
とても優秀だったはずの生徒が、私の当時のやり方にうまく馴染めなかったがために、私だけでなく周囲からも「できないやつ」というレッテルを貼られ、本当は感じる必要のない劣等感に苛まれてしまったことがありました。
また生徒が与えられることを待つようになって、自分の頭で考えなくなってしまうという怖さもあります。
問題を解く際に、生徒が教師の意図するやり方でやらなかった場合に、「自分勝手にやらないで」という脅し文句を使ってしまったことがあります。
このように言われ続けると、生徒は教師の顔色を伺うような行動が当たり前になります。
そこに主体性が育まれる土壌はありません。
生徒が気づかせてくれた「学び、育つ」の姿
では「学び、育つ」って何なのか?ある中学1年生の生徒が英語のテストで悪い点をとり続けていました。
私の伝える勉強方法にも耳を傾ける様子は見られず、昔の私であれば、早々に匙を投げていたような生徒でしたが、ある時期にいきなり点数が30点も上がりました。
それまでの私の経験からは考えられないような出来事でした。
不思議に思った私は、この生徒にどのようにやったのか尋ねてみました。
するとこの生徒はゲーム好きなのですが、ゲームやそれを解説する動画で英語がたくさんでてきたらしいのです。
それで英語に興味がわき、本屋で自分で問題集を買ってきて、わからないところまで戻って最初からやり直したと答えてくれました。
そう、私がうまく教えたからわかったのではなく、その生徒が主体性を持って自分の頭で考えて学んだからわかるようになったのです。
考えてみれば当たり前のことなのですが、当時の私には目から鱗でした。生徒が伸びるコツは教師がいかにうまく教えるかではなく、生徒がいかに上手に学ぶかだったのです。
私が「教え、育てる」という意識を手放して、生徒が「学び、育つ」のだという感覚に切り替えていく必要を感じました。
教師の役割とは何なのか?
では教師の役割って何なのか?私は面談にヒントがあると思っています。
成績が伸び悩んでいる生徒は困っています。
話を聞いてほしいと思っている。
表面上はそう見えないケースも多いですが、裏には存在を受け止めてほしいという心の願いが聞こえてきます。
だからまず面談の中でその生徒の声に真摯に耳を傾ける。
すると、どうありたいか、どうなりたいかが浮かび上がってきます。
学ぶのは子ども、育つのも子ども。
教師は伴走するという意識でいればいい。
知ってほしい教師の心の声
でもこれを読んでいる読者の方には知っていてほしいことがあります。
それは、教師にとっては、「教え、育てる」というのを手放すのは怖いことであるということです。
教師としては、自分の言うことに素直に従ってくれて感謝までしてくれる存在を手放すのは不安でたまらないのです。
この気持ちを理解してくれる人がいてくれると思えたら、きっと私たち教師も変わる勇気がでてくるのだと思うのです。
教師のアイデンティティの一つに【子どもを伸ばせたか】というものがあると思っています。子どもを伸ばしたという自負心や、尊敬されたい承認欲求が、教師に成就感と有能感を与えてくれるのだと思います。そして「教え・育てる」ような『師弟関係』には有能感を感じさせてくれる魅力があるのだと思います。
しかし、このような師弟関係は教師自身が上下の関係を固定化させる危険性があると思いました。多様な生き方、学び方が認められる中で『教え、育てる』という関係性だけでなく、子どもからも学べる「互いに尊重できる」関係が必要なのだと感じました。